


江戸時代初期から商業経済中心地帯として発展した大阪・北浜。
今なお、その面影を残しながら繁栄している北浜の街を御紹介致します。
大阪市中央公会堂(おおさかしちゅうおうこうかいどう)は、大阪市北区中之島にある集会施設。
大阪市中央公会堂(旧中之島公会堂)は、1911年(明治44年)、株式仲買人である岩本栄之助が
当時の100万円を寄付して建設計画が始まった。
北浜の風雲児と呼ばれた相場師・岩本栄之助は渋沢栄一が団長となった1909年(明治42年)の
渡米実業団に参加し、アメリカ大都市の公共施設の立派さや富豪たちによる慈善事業・寄付の
習慣に強い印象を受けた。
彼は父の遺産と私財をあわせた100万円を公共施設建設に寄付することを決め、
蔵屋敷の廃止後衰退し再生を模索していた中之島に公会堂を建設することにした。
設計は、懸賞付き建築設計競技(最終的に13名が参加)により岡田信一郎案が1位となり、
岡田の原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行った。
1913年(大正2年)6月に着工、1918年(大正7年)11月17日にオープン。
岩本栄之助は第一次大戦による相場の変動で大きな損失を出し、
公会堂の完成を見ないまま1916年(大正5年)に自殺した。
建物は鉄骨煉瓦造地上3階・地下1階建て。
意匠はネオ・ルネッサンス様式を基調としつつ、バロック的な壮大さを持ち、
細部にはセセッションを取り入れており、アーチ状の屋根と、
松岡壽によって天地開闢が描かれた特別室の天井画・壁画が特徴となっている。
各種の講演、会合などが催され、大阪市民に親しまれてきた。
ロシア歌劇団の公演、ヘレン・ケラーやガガーリンの講演会が行われた事もある。
大阪市中央公会堂は、日本有数の公会堂建築であり、外観、内装ともに意匠の完成度が高く、
日本の近代建築史上重要なものとして2002年(平成14年)12月26日、国の重要文化財に指定されている。
老朽化が進んだため、1999年(平成11年)3月から2002年(平成14年)9月末まで保存・再生工事が行われ
同年11月にリニューアルオープン。
耐震補強、免震レトロフィットやバリアフリー化がなされ、ライトアップもされるようになった。
リニューアル後も、内装の一部に旧館の遺構をはめ窓のようにしてみせるなど、
歴史に敬意を払った工夫が凝らされている。
また、周辺道路と敷地を隔てる境界にも、遺構が利用されている。
大阪市立東洋陶磁美術館(おおさかしりつとうようとうじびじゅつかん)は、大阪府大阪市北区中之島一丁目にある美術館。
住友グループから寄贈された安宅コレクションと呼ばれる東洋陶磁コレクションを核として1982年に設立。
高麗・李氏朝鮮時代の朝鮮陶磁、中国陶磁を中心に、国宝 2件、国の重要文化財 13件を含む約2000点が収蔵されている。
この珠玉のコレクションは1977年(昭和52年)に経営破綻した大手総合商社安宅産業株式会社および創業家二代目の安宅英一会長が収集したものであった。
安宅英一は社業の傍ら東洋陶磁のコレクション形成に心血を注ぎ、日本中の収集家のコレクションがここに次々と合流していた(いわゆる「安宅コレクション」)。
安宅産業経営破綻後、その所有を住友銀行(現三井住友銀行)が引き継ぎ、体系的で貴重なコレクションの散逸を惜しむ各方面の意見により、住友銀行を中心とした住友グループ各社の協力のもと、965件、約1000点が大阪市に一括寄付されることとなった。
1982年に美術館の開館とともに一般に公開された後、さらに多くのコレクターからの寄贈を受け、特に1999年には在日韓国人実業家・李秉昌からの寄贈で朝鮮陶磁のコレクションに厚みが増している。
難波橋(なにわばし)は、大阪市の旧淀川に架かる橋。
浪速の名橋50選選定橋。
大阪弁では「ナンニャバシ」と発音する。
大阪市中央区北浜〜北区西天満の堺筋にかかる、全長189.7m、幅21.8mの橋である。
途中の中之島を挟み、土佐堀川と堂島川の2つの川を渡る。
江戸時代には天神橋、天満橋と共に浪花三大橋と呼ばれ、表記は「浪華橋」が一般的であった。
堺筋の西隣にある難波橋筋に架かっており、橋の長さが108間(約207m)もの大型の反り橋だったという。
1661年(寛文元年)天神橋とともに公儀橋とされた。
1912年(明治45年)、大阪市電堺筋線の北浜以北への延伸に伴い、現在の場所に架け替えられた。
橋の南詰めおよび北詰めには、天岡均一作のライオンの石像が左右両側にあるため、「ライオン橋」とも呼ばれている。
このライオン像は左側が口を開く阿形像、右側が口を閉じる吽形像となっており、文字通り狛犬の片方である獅子=ライオンであると言える。
このライオン像は京阪中之島線の開通告知CMに使用された。
中之島水上公園計画の一環として設計された事により、石橋風の外観、公園と一体となった階段、高欄の獅子像、親柱にはペディメントやメダリオンをあしらい、市章である「みおつくし」をアレンジした意匠が親柱や欄干に模られている。
1975年には3年間に及ぶ補修工事により戦時中に金属供出で失われた欄干や橋上灯が復元され、近代大阪を彩った美しい外観を保っている。
株式会社大阪証券取引所(おおさかしょうけんとりひきじょ、Osaka Securities Exchange Co., Ltd.)は大阪府大阪市中央区北浜にある日本の金融商品取引所である。
東京証券取引所、名古屋証券取引所と共に、日本の「三市場」の一つ。
略称は大証(だいしょう)。俗称は北浜。
市場第一部・市場第二部・新興企業向けのヘラクレス・日経225先物市場などがある。
諸藩の蔵屋敷があった江戸時代の大坂の米穀取引所を起源に、五代友厚らが発起人となって設立された大阪株式取引所が前身である。
なお、堂島米会所で行われた帳簿上の差金の授受によって決済を行う「帳合米取引」が、世界で最初の商品先物取引と言われる。
この伝統から、大証は指数先物・オプション市場において重要な地位にあると言える。
具体的には、日経225先物等、大証の株価指数先物の日本における取引シェアは約60%を占め、同オプション取引においてはほぼ100%を占めている。
株券オプションにおいても、約85%のシェアを誇っている。またデリバティブ取引の売買高ランキング(2007年)では大証は世界22位であり、30位の東京工業品取引所や33位の東京金融取引所、36位の東京証券取引所などを抜いて日本では最も上位にある。
上場投資信託(ETF)の上場にも意欲的で、日本で始めて株式以外の商品を対象にした金ETFを、2007年8月10日に上場し、同年10月23日には、上海証券取引所に上場している主要50銘柄の株価で算出する上証50指数に連動する海外株価指数連動型ETFを上場した。
海外の株価指数に連動するETFの日本国内上場はこの例が最初となる。
大阪証券取引所自身が株式をニッポン・ニュー・マーケット-ヘラクレスに上場している(証券コード:8697)。
システム障害や災害等の対応策として、2008年春に兵庫県中部にデリバティブ取引の売買システムのバックアップ施設を設置した。
また、現物株の売買システムについては、ジャスダック取引所と提携し、どちらかのシステムが稼働不能になった場合、相手方のシステムで取引を執行させる体制を引いた。
一方、ジャスダック取引所の大株主である日本証券業協会は、証券取引所の再編の一環として、経営体力の低下したジャスダック取引所を、売買システムのバックアップ体制で提携関係にある大証と経営統合させることを検討している。
ジャスダック取引所を大証の子会社化し、ジャスダック取引所のシステムを大証のシステムに一本化することで、ジャスダック取引所の経営を改善しようというものである。
大証とジャスダック取引所とでシステムの一本化と経営統合に関する条件が固まり次第、平成22年までにジャスダック取引所を完全子会社化する予定である。
適塾(てきじゅく)とは、蘭学者・医者として知られる
緒方洪庵が江戸時代後期に大坂・船場に開いた蘭学の私塾。
正式には適々斎塾という。また、適々塾とも称される。
緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来。
幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く輩出し、現在の大阪大学の源流の1つとなっている。
主な門下生
石阪惟寛(陸軍軍医総監)
大鳥圭介(蝦夷共和国の陸軍奉行)
大村益次郎(「村田良庵」と言う名で入塾。日本近代陸軍を創設)
佐野常民(日本赤十字社初代総裁)
高松凌雲(箱館戦争の際の賊軍の病院長)
武田斐三郎
手塚良仙(漫画家・手塚治虫の曽祖父)
長与専斎
橋本左内
福沢諭吉(慶應義塾大学を創設)
1910年(明治43年)
東区唐物町1丁目大阪商盛組合内に於いて同組合有志者が発起人となり、株式会社大阪美術倶楽部が創立した。
1911年(明治44年)
東区淡路町4丁目に約600坪の土地を購入し、同年12月工を起し約1年有余の日月を閲して、純日本式2階建家屋約350坪施工した。
創立以来当倶楽部の事業は専ら会場を貸与するのみで、書画骨董類の入札会及び交換会は組合の主催であったが、大正7年に至り入札会に限り会社の直営とした。
1928年(昭和3年)
都市計画事業の開始により、敷地の幾部を買収されるに至り止むを得ず建造物の一部を毀ち、一大改修を行い、昭和4年10月改修工事完成し社屋の面目一新した。
1935年(昭和10年)
創立25周年記念事業として、蒐集の大を以て世に聞えた鴻池、根津、大原、御三家の貴宝名什を一堂に展列し祝賀茶会を催した。
1937年(昭和12年)
北支事件の勃発に伴い、同年8月貴石貴金属製品等所謂奢侈品に対して、北支事件特別税法が公布され、
更に同13年4月支那事変特別税法が施行され入札交換会に大きな打撃を受けた。
1940年(昭和15年)
奢侈品等製造販売制限令(七、七禁令)が発布され金属製美術品の販売が極めて困難となった。
1942年(昭和17年)
五都美術倶楽部の申合せにより商号を株式会社大阪美術会館と変更した。
大阪古美術報国会を結成し古美術による国威発揚に尽力した。
1943年(昭和18年)
戦時財政の膨張に伴い物品税が大幅に増徴され全く禁止的課税となり入札会等は催されなくなった。
1945年(昭和20年)
空襲で創立以来全国的な美術品の交易市場として、将又展覧会場として美術文化財の保護保存と興隆に貢献し、
幾多の先輩が困難を克服し死守して来た豪華優雅な美術の殿堂は一朝にして灰燼に帰した。
1946年(昭和21年)
旧商号大阪美術倶楽部に改称した。
1947年(昭和22年)
美術界に由緒ある鴻池男爵家本邸である現在の東区今橋2丁目の土地家屋を購入し、同時に淡路町4丁目の羅災地を譲渡した。
1948年(昭和23年)
新社屋移転祝賀茶会を催した。
1951年(昭和26年)
戦後はじめて入札会を催したところ、江湖美術愛好家の好評を博す爾来年四回定期入札会を催し逐年盛況を見る。
1958年(昭和33年)
急速なる文化の向上に伴う自家用車の普及に鑑み、副業としてモータープールを企劃約40坪のパイプハウス式モータープール場を建設、
更に翌34年10月鉄骨組立約160坪を増築し事業大いに殷賑す。
1960年(昭和35年)
創立50周年記念名宝展並びに記念茶会開催。
国宝8点、重要文化財16点、重要美術品9点を含む名品124点を展列し祝賀茶会を開催した。
1965年(昭和40年)
木造一部を取り壊し地上3階、地下1階延350坪の鉄筋新社屋を新築し事業を拡大する。
1980年(昭和55年)
鉄筋4階建て延470坪のビルを増築し、美術品の取引市場並びに本格的な貸し会場として事業を拡大する。
1998年(平成10年)
創立90周年記念事業として、大阪物故日本画家回顧展を開催する。
2000年(平成12年)
第1回大美特別展を大阪美術商協同組合と協同で開催。以後3年に一度開催する。
2007年(平成19年)
昭和22年より使用してきた鴻池男爵家本邸を建替し、地上3階建ての新館が完成。
少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)は、大阪市中央区道修町(どしょうまち)にある神社。
別称として、道修町の神農(しんのう)さん、神農さん。
祭神は薬・医療・温泉・国土開発・醸造・交易の神であるが、
少彦名神社では、薬の神として健康増進、交易の神として商売繁盛の御神徳があるとされている。
薬にゆかりのある祭神を祀っていることから、
医薬業に携わる会社・関係者などの信仰を集めている。
また、病気平癒・健康祈願や医薬業関連の資格試験合格を願う参詣者も多い。















